◆中山道と妻籠宿

 中山道と書いて「なかせんどう」と読む。始めは「中仙道」と書かれていたようだが、1916(享保元)年以降「中山道」と書くようになった。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利した翌年、東海道(東の海沿いの道)をはじめ、全国の交通網の整備に着手した。中山道は江戸・日本橋から京都までの本州中部山岳地帯を縦断するルートで、132里(約530km)の道程に69の宿場が設けられた。

 中山道42番目の妻籠宿(長野県木曽郡南木曾町)を訪れた。この妻籠宿は2カ月ほど前になろうか、NHKの番組で紹介されているのを見たことがある。日本の中で今もこのように江戸時代の街並みが、見事に残っていることに衝撃を受けた。一歩足を踏み入れてみると、そこはまるで時代劇のセットのようであった。路地からいきなり水戸黄門様や、助さん角さんに出会うような錯覚さえ覚える。

 ここは中山道と飯田街道の分岐点でもあり、古くから交通の要所として大いに栄えた処である。しかし明治に入ってこの町は急速に寂れてしまう。その理由は国道19号線の開通により、道路は1kmほど木曽川沿い逸れ、鉄道(中央本線)は更に木曽川を越える位置に設置されたからだ。

 完全に取り残されてしまった妻籠宿。経済的に困窮。誰も家にお金を懸ける人はいなかった。それが今振り返れば良かったのかも知れない。昔の家が置き去りになった結果、全長約500mの街並みは1976(昭和51)年に国の重要伝統建物保存地区に選定された。ここは日本の心の故郷であり、貴重な宝・財産でもあるのだ。今では連日大型バスからマイカーに観光客は後を絶つことはない。

2008年秋