中山道と書いて「なかせんどう」と読む。始めは「中仙道」と書かれていたようだが、1916(享保元)年以降「中山道」と書くようになった。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利した翌年、東海道(東の海沿いの道)をはじめ、全国の交通網の整備に着手した。中山道は江戸・日本橋から京都までの本州中部山岳地帯を縦断するルートで、132里(約530km)の道程に69の宿場が設けられた。
中山道42番目の妻籠宿(長野県木曽郡南木曾町)を訪れた。この妻籠宿は2カ月ほど前になろうか、NHKの番組で紹介されているのを見たことがある。日本の中で今もこのように江戸時代の街並みが、見事に残っていることに衝撃を受けた。一歩足を踏み入れてみると、そこはまるで時代劇のセットのようであった。路地からいきなり水戸黄門様や、助さん角さんに出会うような錯覚さえ覚える。
ここは中山道と飯田街道の分岐点でもあり、古くから交通の要所として大いに栄えた処である。しかし明治に入ってこの町は急速に寂れてしまう。その理由は国道19号線の開通により、道路は1kmほど木曽川沿い逸れ、鉄道(中央本線)は更に木曽川を越える位置に設置されたからだ。
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