◆三木城の悲劇

 兵庫県三木市は神戸市に隣接しており、神戸電鉄で結ばれている自然豊かなベッドタウンである。近年の発展は目覚しく、ゴルフ場のメッカでもある。上の丸駅を下車して徒歩3分の所に、三木城址はあった。小高い山の中腹に、少々不気味な感じがしないわけでもないが、歴史の香りが一面に漂っていた。

 1580(天正8)年、青年城主・別府長治の難攻不落の三木城は遂に落城した。室町時代末期は天下統一への戦国時代の真っ只中であった。ここ三木城主も当初は織田信長勢と友好関係にあったが、信長の残虐な行為に反旗を翻し、中国の毛利方と手を結ぶ。攻めるは中国攻めを命ぜられた当代随一の知将・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)。

 秀吉はちっぽけな田舎の城など、一溜りもなく制圧できると高を食っていた。しかし血の川、屍の山を築き、一面大修羅場となりつつも、22ヶ月籠城して応戦した。食料を始め全ての物資を絶たれては、後は時間の問題であった。別所長冶は義を守った家来のため、また哀れな婦女子や庶民を思い、自らの命(妻子、兄弟等)と引き換えに、これらの人達の助命を嘆願し開城。時に長冶23歳の若さでの自刀であった。

 本丸跡に大きな石に歌碑が刻まれていた。近寄ってみると「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」。これは長冶が詠んだ歌である。彼の行動に思いを馳せるに、涙とともに暫し立ち竦んでいた。その後の三木の人達は別所長冶を手厚く扱い、現在に至るまで様々な伝統行事が執り行われている。

撮影2007年夏