男は命と引き換えてでも「意地」を優先する時がある。こういえばあたかも美しく聞こえるかも知れないが、この世で命ほど尊いものはない。「命と引き換える」それ以上の価値はこの世では存在しない。 時に1701(元禄14)年のこと。赤穂城三代目藩主・浅野内匠頭長矩は、高家の吉良上野介義央から今でいう「いじめ」に遭っていた。その恨みを晴らすべく、あってはならないルール違反を犯してしまった。殿中で刀を抜いて切りかかったのである。これは明らかに間違った行為であった。よって即日打首、切腹となる。当然のことである。しかしここで問題が起こる。当時、喧嘩両成敗の風潮があったなかで、一方の吉良はお咎めなしとなってしまった。これでは浅野家側が怒るのも無理はない。不審を理由に家臣たちは仇討ちへの道へ進む結果となってしまった。 翌年12月14日。赤穂浪士47人は心一つに団結し、耐えに耐え抜いてこの日を迎えた。ただ一筋に主君の仇討ちを夢見て。その甲斐あって吉良の首を取り、見事念願の仇討ちを成功させる。その足で主君の墓前に報告出来たことは、武士道の最高の栄誉であったに違いない。ここまではハッピーエンドであったのだが、その後の処分は全員切腹であった。最年長は堀部弥兵衛77歳、最年少は主悦16歳であった。
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