屋島の山の形を見ていると、頂上部が平坦で屋根に似ていることから「屋島」と名付けられたとか。アフリカ最南端の南アフリカ共和国の首都ケープタウンにも屋島と同じ形をした山がある。しかし所変われば見る目も違ってくる。ここではテーブルに似ているから「テーブルマウンティン」となる。そして国立公園として皆から親しまれる景勝の地となっている。その他南アメリカのギアナ台地も同じような山がある。ここはロストワールドともいわれ山頂はつい最近まで未知の世界であった。 夏休みの家族旅行で、神戸「一の谷合戦」近くにある我が家より、平安時代末期に思いをタイムスリップして、次の合戦の地「屋島」までの足跡を辿ってみた。勿論当時は船での移動であったが、我々は明石大橋・鳴門大橋を使っての陸続きの車での移動であった。両地ともに今から遥か820年前の「源平合戦」のクライマックスの場所である。神戸には一の谷をはじめ、鵯越(ひよどりごえ)等、当時からの地名が今も残っている。源義経の無謀ともいえる逆落とし奇襲作戦の成功により、形成は一挙に変化して平家の大敗北となる。そして舞台は次なる合戦の地、高松の「屋島」に移るのである。ここでも度々の激しい合戦を繰り広げ、多くの戦死者を出した。源氏の決定的な勢いに平家の軍勢は散り散り逃走していく。本隊は長門の壇ノ浦へ逃げて行くものの、阿波(徳島県)祖谷山の「平家の落人」をはじめ、残党の多くは全国各地の山奥人里離れた地に、息を潜めて生き延びようとした。 私の本籍地(ルーツ)は屋島から車で20分の所。初めて四国に渡ったのは大学一年の夏休み。高校時代の柔道部の仲間4人で遊びに行った。当時は瀬戸内海を宇高連絡線の船で渡った。まず最初に行ったのが「屋島」であった。山頂は見た目通りたしかに平らであった。あちこちに源平合戦の歴史を刻む場所があり、しばし説明の立て看板を読むが、やはり争いは悲惨である。いつの時代にあっても平和ほど尊いものはない。人間は過去からの教訓として「戦争の悲惨さ」を何度も経験しておきながら、愚かな戦争は今も続けられている。もう止めようヨ。絶対に! 撮影2004年 夏
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