◆ 白鶴美術館は社会還元の証

 「お酒を分けてください」。「少しで良ければお分けしましょう」。「本当にありがとうございます感謝します」。これは一昔前の酒造メーカーと消費者の会話を代表するものである。それほどお酒は当時貴重な品であった。したがって酒造メーカーは造れば売れる大名商売のような商いをしていた。特に「灘の生一本」と呼ばれる神戸・西宮地域では、大手酒造メーカーが軒を並べ大発展をした。儲けたお金は社会に還元され、文化・教育の分野で大いに貢献した。

 私が高校時代のことであった。JRに乗って六甲山脈を眺めていると、川をさかのぼっての山間に、ひと際目を引く立派でお城のような建物が見えた。「あれはなんだろう?」興味は尽きなかったが、ただ時間ばかりが過ぎていった。それから20年の歳月が流れたある日のこと。

 結婚してまだ小さい子供3人と共に、六甲山麓にある「うどん屋」に行った帰り、道を間違え豪華な邸宅の前に出てきた。それは過去から興味を持っていたあの建物であった。その時「白鶴美術館」だと初めて知る。以来何度も見学させて頂いた。中国・唐時代の銀器、鏡は世界有数のコレクションで誠に見事なものである。それらの中には国宝、重要文化財も数多く含まれている。

 「白鶴美術館」の歴史は白鶴酒造7代目嘉納治兵衛が明治、大正、昭和にかけて古美術品をコレクション。1934(昭和9)年に開館した。更に時を経て60周年を記念して日本で初めて「カーペット・ミュージアム」もオープンしている。

 私を気に入ってくれている数少ない人のなかに、菊正宗酒造会長の嘉納穀六氏がおられる。年齢は90歳前後で今もお元気で活躍されている。嬉しい限りだ。その嘉納会長が「私の親戚に嘉納治五郎がおり、講道館柔道を始めた」と。また謙遜にも「酒屋のどら息子を入れるために灘中学・高校を創った」とも。今では柔道は世界に広がり、オリンピックの種目にもなっている。灘高は日本一の東大合格者を出し、有能な人材を輩出して来ている。日本の歴史に大きな影響力を投じた嘉納家に私は心からの拍手を贈りたい。

撮影2004年 夏