ある人の紹介で私と母は、老婦人の住むお宅を訪ねた。それはたしか東京・国立市であったと 記憶する。やっとの思いで質素な小さな一軒家を捜し当てることができた。部屋に通されたがきれいに整理整頓されており、ぜいたく品も飾りもなく、それでいて上品なうえ何か高貴な香りさえ感じ取れた。お名前は「井伊○○」さん。滋賀県彦根のご出身とのこと。そう聞けばあの大老の井伊直弼(幕閣最高責任者)をすぐに思い浮かぶ。実はその方は井伊家の末裔であったのだ。道理で元武士の家柄らしく、座っていても背筋が伸びて姿勢がよく、話し方からしても品のよさが感じ取れました。気持の良い友好の対話は進み、名残惜しまれつつも家を失礼した。 ここで江戸幕府大老「井伊直弼」について少し触れておこう。近江彦根藩主井伊直中の14男として生まれる。不遇な人生の中にあって国学を修め、三兄の藩主直亮の死により彦根藩主となる。更には13代将軍家定より大老職に任ぜられる。かねてより懸案の「日米修好通商条約」を水戸藩主徳川斉昭らの猛反対を押し切って、孝明天皇の勅許なく調印。将軍家定の後継に、紀伊和歌山藩主慶福を決定する。これにより一橋慶喜を擁立する攘夷派は敗れてしまう。この直後より井伊直弼は反体制派を一掃する。 1860年3月、安政の大獄で過酷な処分に不服を持つ水戸藩浪士が、江戸城桜田門外で井伊大老を暗殺。雪の降るなか護衛の武士達の多くは刀を抜けず、直弼は凶刃に倒れる。これが有名な「桜田門外の変」として今日まで伝えられている。今この事件現場の目の前には警察本部ともいうべき「警視庁」が建っているのも、なんとも不思議な感を覚えるのであります。
私はこれまで何度か「桜田門」の前を通ったことがあるが、井伊大老暗殺の場所であると共に、私にとってはあのキッリとした品格のある老婦人の姿が目に浮かぶのであった。
撮影2004年 冬
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